ノスタルジーは危ないと教えてくれる、ノスタルジーにまみれたおもしろアニメ映画『我々は宇宙人』

なんか、ネタバレとか、するよ。そういうのやだなって人は、読まないでね。

すげー前評判がいい謎の映画が公開されたので、よく知らんが初日に見に行ったらおもしろかったので、おもしろい映画見れてよかったなあという気持ち。本当に、今年、私にとっておもれー映画が少なく涙も枯れていたところなので、超うれしい。
門脇康平っていう29歳のずいぶんわけー監督が企画から脚本から絵コンテからいろいろやったらしい、熱量こもってますねといった感じのアニメーション映画『我々は宇宙人』。事前に試写かなにかで鑑賞したらしい業界人たちが「この映画、マジすごいっす・・・」と口をそろえて言ってるので、ふーん、見るじゃん、そういうの。何もわからず見に行きました。初日、バルト9の21時からの上映、半分くらい席埋まってた気がする。

大まかなあらすじとしては、小学生の時すげー仲良かった二人の平成一桁ガチ少年がある出来事をきっかけに疎遠になっていき、大人になって再会するけどもう仲良くできねーわな、という感じ。まあ、よくあるやつなのだけれど、映画の前半1時間はガキとガキとガキとガキがキャッキャしてるような話がずっと続くので、これ何の話なんだろうと思ったけどね。

私が思い出したのは𠮷田恵輔が監督した映画。中でもやっぱ『ヒメアノ〜ル』(2016)を想起させるよね。古谷実の原作マンガを大きくアレンジした映画で、「幼い頃は仲が良かったけど疎遠になった二人の男」の話として、すげーよくできた映画だったよね。『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』で「元トモ特集」とかしてたわ、なつかしー(←ノスタルジー)。映画が中盤まで進んだところでようやくタイトルが表示される演出なんか、すげー『ヒメアノ〜ル』感あったよ。

『我々は宇宙人』には時代を象徴する表象(チャレンジの「コラショ」とかポケモンシールとか二つ折り携帯電話とか)がたくさん描かれるのだけれど、そういった当時の風俗の描写がどこか冷めていて、そしてほんの少しアイロニカルなのだけれど、強いこだわりがある。その辺の温度感も𠮷田恵輔の作風に近いなと感じている。で、𠮷田恵輔は漫画家の新井英樹(特に『愛しのアイリーン』)から強い影響を受けてたりする映画監督なわけだけれど、まあようは、ここまで出てきた固有名詞とかで、『我々は宇宙人』がどういう映画かわかるじゃん。「ご都合主義なエンタメとは違うリアルな現実を突きつけてきて良い」と喜ばれそうな感じのエンタメ。そういうアニメーション映画、結構珍しいよね。マンガにはそこそこある気がするけど、これアニメで作りたいんだヨ!っていう気持ちを強く抱いていて、実際作っちゃう人がいるんだあって驚きがあるよ。

でさ、この映画なにがおもしろいって、普通に映画がうまくてすごい。主人公である2人の少年が初めて心を通わす一連の流れでは、橋と橋の隙間からその下を通る細い川を覗き込むシーンがあるのだけれど、それが後半、都心の立体的に入り組んだ車道でもう一度、全く違った印象を持つシーンで再現されたりする。全体を通してロケーションへの意識がすさまじく、台詞でなく画で語ることを一切怠らない姿勢がある。
それに加え、登場人物たちの生活感を醸し出す細かい演出がいたるところへ挟み込まれ、そのディテールがいちいち面白い。ブラウン管のテレビの画面に帯電している静電気から母親にゲームをしていたことがバレるとか、洋式便器の蓋をちゃんと開けれなくてしまってくる蓋の上に座ってびっくりしちゃうとか、生々しさが伝わってくる描写が次から次へと現れ、それを見つけていくだけでおもろかったりする。

なかでも関心するのが、主人公の一人が喧嘩をして顔を殴られた後に、公衆便所のトイレットペーパーで鼻血を拭くシーン。片手に持つトイレットペーパーのロールに一滴の血が落ちて、血が染みた部分がなくなるまで何度もロールを手に巻いていくのだけれど、そのたびに染みが少しずつ小さくなっていく、とか。私たちの生活にあふれる焦れったさが、共感できる小さくて卑近な事象によって積み重ねられていくので、思わず没入してしまう。で、更にこのシーンは大量のトイレットペーパーを流したことで便器がつまり、逆流した水がトイレの床に広がるところを巡回している警官に目撃され、10代特有の自意識から思わず逃げ出してしまう流れへと自然と繋がっていく脚本になっていて、うま・・・え?映画うまくね???なに?

とまあそういう感じで没頭できる物語は、ゆるーくいじめっ子いじめられっ子的な関係性を経て、成人となった少年だった二人の男が再会する場面へたどり着く。ひとりはグレたりしながらもちゃっかり大学を卒業し就職し交際相手もいる。ひとりは小学校のとある事故をきっかけに孤立してしまったことを引きずり続け無気力な人生を送っており、そして片方へ恨みを募らせている。
陽キャ陰キャ的、弱者男性的、インセル的な物語軸が映画後半で急に立ち上がる。「お前があの時あんなことしなきゃ俺はもっと青春を謳歌できて、もっとましな人生を送っていた」という訴えに対し、「え、いつまで昔の話をしてるんだよ(ドン引き)」という反応。この残酷なアンフェアさが、この映画に溢れるノスタルジーを喚起させる意匠と強く結びつく。

先述した通り、この映画は冒頭から『こどもちゃれんじ』のキャラクターである「コラショ」の目覚まし時計が登場するのだが、他にも「ポケモンシール」や「ニンテンドーDS」、実在する駄菓子や二つ折り携帯などなどが美術として登場していて、マジすごい。クレジットの「美術協力」にたくさんの企業の名がクレジットされていたが、そのようなこだわりによって2000年前後のそういった文化とその表象をそのまま映画に組み込み、全体を強いノスタルジーでおおっている。そしてそれが、この映画の魅力の一部として機能するように作られている。まさに「いつまで昔の話を(ドン引き)」ってわけなのだが、そういった郷愁とインセル的な憎悪が地続きであると、この映画は示している。幼き頃の可能性に開かれていた時期特有の多幸感や万能感、それを再び呼び起こしたいという欲望は、やすやすと他人を恨み傷つけようとする衝動へと転じてしまうのだと。

まじか、確かにそうかもなと思える、説得力のある物語展開、ではある。よくわからんが。

そして「じゃあね」と何度も叫び2人は別々の人生を歩んでいくことで物語が終わるのだけれど、それはつまりノスタルジーへの欲望との決別でもあり、それによって前を向いて生きていこうや、的な、そういう話になっていく。

まあそりゃ、そう終わるよねって感じなのだけれど、やっぱり、思うわけ、そういう映画なのは立派だけれどさ、そんなこと言ってくる映画が、ノスタルジーを掻き立てることに心血注ぎ込みすぎだろって。それってミイラ取りがミイラになるとか、そういうやつになってない? クレしんの『オトナ帝国の逆襲』みたいな、ノスタルジックでエモってするの禁止でーすって言ってくる奴が、すげーエモくさせてきてウザい問題。個人的には、マジ、うるさって思います。
こういう物語や問題意識について、私自身も何度も考えることではあるが、みんな好きすぎるよ、こういう話。ノスタルジーは良くないという、今となってはシンプルな問題意識そのものがもはやノスタルジックですらある。だからこそ、この映画は娯楽作品としておもしろいのだけれど。

インセルやら弱者男性やらの研究の現場ではそれはまったく的外れでーす、という反論ツイート(というか長文ポスト)やnoteがこの先出てくる気もする。私はまったくの素人なのでなにも分からないが、結局は孤立してしまう事が郷愁への欲望を加速させてしまうのだろうから、孤立が怖いってことになる。でもそうなるとケアの話になっていく必要がある。この映画も最終的には、恨みを募らせていたやつにも話の合う友人がちゃんと存在していて、そいつとの関係によって人生を立て直したんかな、と思える描写がある。しかしこれも小学生からの仲ってところが恐ろしい話で、人生の立て直しも10代の頃の人間関係で決定されかねないという、おそらく監督は意図していないであろうが、とても後ろ向きなものとして機能してしまっているエピソードではある。やはり、ノスタルジーに「じゃあね」と言いながらも、この映画自体が非常にノスタルジーへ閉じこもろうとする部分がある。
私自身はそれを、とても強く警戒した。

この映画は、きっと、おそらく、まじで、絶賛されまくるだろうから、こういうことをこっそりここで書いておく。繰り返すけど、おもしろい映画だった。絶望した顔が全部同じだとか、他にもいろいろ言いたいことあるけどさ、本当におもしろい映画を見れて、超はっぴーです、私。すごい才能が出てきてワクワクです。でもさ、今『Dressmaker』っていうドレス作るゲームに夢中なんで、あの、もう自分、ドレス作ってきますね。おわり。

💬