ちいかわの映画をみて、個人的にいちばん衝撃だったのはエンディング曲の『机さする』だったんですが、衝撃過ぎてオープニング曲『くつずれ』のことをすっかり忘れてもいたのですが、今更言うけどね、どっちもさ、マジ、いい曲・・・。いい曲過ぎてため息もれちゃうョ。
で、ずーっとこの2つの楽曲について考えていたんだけれど、やっぱりさ、変だと思うわけよ、これら。普通に考えてね、映画の主題歌だったりするものって、その映画のテーマだったりを象徴するようなものが、歌詞だったりに落とし込まれていたりするでしょう?でもどういう訳か「目がショボショボする」とか「なにもしなかったけどいい日だった」みたいなことを歌っているよね。なんすか。あの映画の物語だったらさ、もっとこう、「どうすればよかったのかな」とか「それぞれ事情があったよな」とか「辛すぎる食べ物は怖いんだな」とか、あるんじゃねーのって、素朴な客(宇多丸男でもなんでもいいけど[1])として思うわけ。そーなってないからすげーってことは当然そうなのだけれど、じゃあどうなってんのよってことを考えていたわけ。
例えば最近の映画主題歌で言ったら米津の『IRIS OUT』がええ感じってことになってるわけじゃん。『チェンソーマン レゼ篇』のストーリーを思わせる、「女に狂わされてゲロ吐いちゃう」みたいな歌詞は、なんか雰囲気があってて、イイねって評価がされているよね。その曲を聴けば映画の内容が鮮明に思い出されるような、そういう作りになっていて、偉いよね。
私の世代だとさ、『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』の『風といっしょに』とかが強く記憶に残ってたりするんですよ。小林幸子が歌ってるあれね。聴くとさ、映画の内容思い出して、「いのちとか、人の営みとか、だよなあ・・・」って、壮大なイメージとともに気持ちよくなれる。何か大事なこととかを思い出すなあ、よくわからんが、なんかそうだなあ。そういう感じなわけ。
でも『くつずれ』も『机さする』もどうっすか。全然違うじゃん。なんかもっと、そういうのとは別の狙いを感じたり、しませんか。しますよね。します。するったらするの!
なにはともあれさ、『くつずれ』と『机さする』という曲、どっちも歌詞では「何も覚えていられないし、思い出せない」ってことがつづられているよね。『くつずれ』では、昨日の天気もよくわからなくなっているし、美味しいもの食べたときに撮った写真を見てもそれをあんまり覚えてなかったりする。『机さする』では、まず忘れることを強く恐れているし、忘れないようにいろいろ記録を残していても結局なにか肝心なものが抜け落ちていくから、机をさすってそれを呼び起こそうとしている。前者はハチワレの曲として、後者はちいかわの曲として考えれば、どちらも"らしさ"が溢れていてとても良いのだが、とにかく忘れててすごい。
でさ、やっぱ一般的に考えて、『ちいかわ』の映画のために用意されたこの2曲は、映画を構成する大事な要素なわけで、その上で考えると次のようなことが言えるよね。
この「覚えていられない」感覚を歌う2曲に挟まれた悲惨な物語も、ちいかわやハチワレたちにとってはすぐに忘れてしまいかねない出来事かもな、と。
え、忘れちゃうの?マジかよ。忘れすぎだろお前ら。とも思うんだけれど、『ちいかわ』のマンガの方では島から帰ってきた直後のエピソードで、日焼けして皮むけちゃうとかで笑いあってる。うーん。どうだろう、こいつら怪しくね?
でもさ、この「覚えてても忘れそう」で怖いから、なんかメモとかしとくけど、結局ぼんやりしてくる感覚は、すごい身に覚えがあるというか、わかるなあって私自身も思うわけよ。それこそ海の向こうの大変な出来事すら、毎日の中でぼんやりしていってるよ、私は。みんなはどうか知らんが。
ハチワレはそんな感覚の中でも、靴ずれの痛みを感じながらもひたむきに進もうとしてるけど、それも共感できる。ちいかわの「明日朝起きたら全部が変わっちゃってるかも」という期待とも不安ともつかない予感をぼんやりと抱くのも、そう。それらの感覚は、全部ぼんやりとしとしていく記憶の中で生まれていて、何か書いていて泣けてきたけど、そうだよなあって、思います。
この忘却のニュアンスは、例えば新海誠の『君の名は。』(2016)で描かれるものとはかなり違うものだよね。『君の名は。』で描かれる忘却は、無関係・無関心ゆえの気にかけなさだったり、記憶から削除されるかのようなものだったりした。大規模な災害が、時間の中で人々の記憶の底に沈み込んでしまう危うさを、SF的な想像力も使って描いていた。「はい、みんな忘れましたよ!」って感じで。
でも『ちいかわ』のこの2曲が歌う忘却はそんなはっきりしていない。覚えてるけど覚えていない、とでもいえばいいのだろうか。写真なんかを見返せばぱっと思い出せたりもするが、それは全てではなく、多くのことを忘れてしまっているかのような不安、そしてその不安から来る痛みはやたらはっきりあって、目がショボショボしちゃうが、そんなことは大したことないのかもしれないと思ったりする。もしくは、やっぱり、机をさするような必死な抵抗をしてみたり。
私が『机さする』について考えるときに対比として思い返していたのは、2025年のM-1グランプリでのドンテコルテの漫才の一節「スワイプ、スワイプ」だった。これはボケ担当の渡辺銀次が、スマホをずっと見ちゃう自分を過剰に肯定するさいに使った言葉で、「現実をスワイプ」と言って現実逃避を広く推奨するボケだった。見たくない現実を忘れさせる行為として、スマホの画面を指でなぞる動作をおもしろーくネタにしていた。これ、ちいかわが現実を繋ぎ止めようと机をさすっていることと、マジ、超、正反対だなあって、考えたりしていたわけ。銀次は開き直って「スワイプ」と高らかに笑っていたけれど、ちいかわはどうなんだろうか、ね。
私個人の感覚で言えば、ドンデコルテのネタが現代的だとか言われても、ちょっと嘘くさいよなって思うわけ[2]。そんでもって、机とかをさすらせるナガノの詩に、何かを暴かれたかのような気まずさを感じるわけね。あの映画の物語に、なにか教訓めいたものが描かれていようとも、どーせ、ぼんやりしていくよね。私の中では『ちいかわ』の映画は、そういう映画に今なっちゃってさ、ナガノさ、あのさ、そんな酷いこと言わなくてもよくね😭?って、思ったので、書いとこ、こわいから〜って感じでした。
ついでにって感じで付け加えておくのだけれど、『机さする』って曲自体が、なんかうまく思い出せない楽曲だと思う。ふとした瞬間に口ずさめなかったりしたことが多かった。さっき何度も聞いたのに、歌い出しすら出てこないことが何度もあった。どこかとらえどころのない、でも印象に残る音楽が、ポップスとして成立していることが不気味ですらある。「あしたはたぶん 起きたとき そんなんじゃないんじゃないのかな」の拍のずらし方が分かりやすい(というかそれしかわからん)けど、なにか曖昧にしていくような、そういう音楽上の仕掛けが施されているんじゃないかって、睨んでいる。にしても、不思議な曲だなって、本当に思いますね。




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