最近、ついにニンテンドースイッチ2が遊べる環境が手に入ったので、ポケモンシリーズの新作『ぽこ あ ポケモン』を遊んだ。単にゲームがおもしれーって話をするよ。そういう話も超する!
えー、あつ森みたいなやつ?
私は意地悪な人間なので、『ぽこ あ ポケモン』(以下『ぽこポケ』だろこんな変なタイトルは)が発表されたとき、また既存のジャンル [1] を任天堂がうまい感じに組み合わせて、ええ感じにした、いつものやつかー、って思ったりした。(同じく任天堂のゲームである)『あつまれ どうぶつの森』が売れたからって、似たようなのをポケモン使って作ってる感じがして、どうなのとかとくに思ったりした。
で、実際に遊んでみるとゲームシステムの大半の部分はまんまそういう感じだった。でも、それ以外の部分でなにかすげぇことをやっていて、マジびっくり。で、それが、ゲームシステムとすごく噛み合っていて、ほんとびっくり、しながらこれを書いている。
私は任天堂のゲームに対してちょっと懐疑的なところがあって、いまいち好きになれないなあとか思っている。任天堂のゲーム(ってかあらゆるもの)に対して、わざわざ意地悪な視点で解釈して、それってどうなのってわざわざいったりする、そういう奴、いるじゃん、たまにさ。私ってそういう奴なんね。『ぽこポケ』がゲームフリークとコーエーテクモが中心になって作ってるとかは、知ってるよそりゃ。まあでも、任天堂から発売されているゲームって、任天堂の色が強く反映されているじゃん。
でさ、ポケモンってペットみたいな側面もあるくせに、戦わせたりしててどうなのとかさ、ポケモンというゲーム(というかIP)に対する皮肉でまっさきに出てくるやつなどを、ふつーに、言ったりする。だってそうじゃん、かわいい奴らを戦わせて、かわいそうじゃんか。人間とポケモンって、つまりはどういう関係なんですか。とかずっと思ってた。
パルワールド議論再燃
ほんとうにずっと思っているので、私は過去に、noteで『パルワールド』というゲームについて少し書いたこともある。
https://note.com/zense_ibutsu/n/nea8de717a0fc ←これの25位に書いていたりする [2] 。
ポケットピアがつくった『パルワールド』というゲームは、ポケモンをパクったデザインの生き物(通称「パル」)がたくさん出てきて、なんならそいつらを銃で撃って殺せるやべーゲーム。「ひんし」になりはすれど、決して戦いの中で命を落とすことのないポケモンと比べて、注意を払わなければ死んでしまうパルは、冒険をしていく中で(私にとっては)情がめばえやすくて、それが楽しかった。ポケモンみたいなやつらが死んじゃ、嫌じゃん。ね。
私は、ポケモンにもっと情をめばえていきたかったんだと、もっと深い関係を築きたかったんだと、そう気づかされたゲームだった。それはポケモンを撫でてかわいーってできるとか、そういうことではなかった。
『パルワールド』は最近やっと正式リリースしたらしく、それにともない旧Twitterでパクリだとかパクリじゃないとかの議論が再燃している。でも私にとってその議論は、ほんとに、どーーーーーでもよすぎる。ポケモンというIPについて考えるヒントをくれるゲームなのに、そういうことには関心、ないんすかね。
ぽこポケはパルワールドへのアンサー、でしょ
というかね、『ぽこポケ』は『パルワールド』への、アンサーになっているゲームじゃんか。それも、とても素晴らしいアンサーになっている。そういう話したほうがよくない?
『ぽこポケ』というゲームは、びっくりすることに人間が出てこない。どうやら、環境問題がどうとか、そういうあれで、人間は地球からいなくなってしまい、結構な時間が経っている、ぽい。
プレイヤーはそんな世界でメタモンになって、ポケモンが住みよい環境を整えていく。そうするとどんどんポケモンが「住みやすそー」と集まってくる。色んな「わざ」を教えてもらったり、建築を手伝ってもらったりして、一緒に街を作り直したりする。その過程で、今までのポケモンのシリーズにはなかったポケモンとの関係が築かれていく。プレイヤーが人間じゃなく、メタモンという同じポケモン同士だからか、ポケモンたちとすごい仲良くなってる気がしてくる。まず、ポケモンとめちゃおしゃべりができてすごい(ほんとすごい)。覚えた「みずでっぽう」で地面に水をまいて草をはやしたりしたら、近くのポケモンがかけよってきてよろこぶから、うれしい(ほんとうれしい)。ポケモンに作業を手伝ってほしいとお願いすると快諾してくれて、終わったら「終わったよー」ってうれしそうに教えてくれて、もうね、感極まってしまうよ。
ゲームの中で必要な作業を手伝わせることができるというシステムは、『パルワールド』にもあった。ある作業に人員をアサインして効率的にゲームを進めるというシステム自体、別に珍しいものじゃないが [3] 、かわいい架空のキャラクターにそれをやらせると、「なんか、ありがとうな・・・」という気持ちになれて楽しい。それがポケモンみたいな存在だとなおさら。『パルワールド』にはそういう体験があった。でもやっぱり、『パルワールド』でのプレイヤーとパルとの関係は、人間と人間につかわれる動物という印象が強かった。人間と動物という関係が強調されることで、私はそこに具体的な関係を感じることができたのだと思う。
でも『ぽこポケ』はそれとは微妙に違う。ポケモンになってポケモンと関係を深めていくゲームになっている。プレイヤーがポケモンとなるゲームは『ポケモン 不思議なダンジョン』があったりするが、こちらはストーリーが、人間がなぜかポケモンになっちゃったというものなので、これもちょっと違う。『ぽこポケ』は、ポケモンとしてポケモンとコミュニケーションをとれるという点で、かなり異質なタイトルだと言える。そしてそのコミュニケーションの中心には、『パルワールド』がもつ、いうても最近オギャって生まれたキャラクターたちでは太刀打ちできない、30年という長い時間積み重ねたポケモンのIPとしての力強さがある。
今更だけれど、架空の生き物と触れ合えて嬉しいとか、頭のおかしい感想だ。でも私たちの生活のすぐ近くで、30年もゲームやらアニメやらグッズやらをやっているキャラクターIPは、もはや私たちにとって、「いないけどいる」存在だ。
つまりさ、『ミュウツーの逆襲』とかって
1996年に最初のゲーム『ポケットモンスター 赤・緑』が発売され、1998年に最初のアニメ映画『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』が公開される。未だに名作といわれることの多い『ミュウツーの逆襲』という映画は、ミュウという幻のポケモンの化石から人工的に作られたミュウツーというポケモンが、「なぜ私を作った」とか哲学的な問いに目覚めて人類に逆襲する、なんか生命倫理的な何かで考えさせられるなあーみたいなストーリーだ。けれども、振り返ればそういった問いは、「なぜ架空の生命を創作し、コンテンツとして消費するのか」という問題提起でもあったはずだ。まだ生まれて間もなかったキャラクターIPの映画が、そのような内容となっていることは、(当時の業界の力関係的にも [4] )とても腑に落ちるものだ。
けれども、もうポケモンは30年も私たちの生活の周りに、常に何か、ある。もはや「なぜポケモンを愛でるのか・・・」という深イイ感じの問いなんか成立しない。あるんだから、仕方がない。
それはもちろん、ちょっと怖いことでもある。私たちの人生にキャラクタービジネスがあまりに深く根づいているということだから。でも、そんなのさ、別に、よくない?批判的に批評とかしたところで、まあ、ポケモンってかわいいし。大事なのは、"今"の私たちとポケモン(という商品)の関係で、その中で商品を売る側が、何をしてくれているか、何をしてくれてないのか、そこに注目したい。
ポストアポカリプスを使ってさ
人間がいなくなった世界で、残された何かしらが、何かしらをするエモいフィクションは多くある。ポストアポカリプスと呼ばれるSFのサブジャンルで、去年放送されたアニメ『アポカリプスホテル』は、ホテルを管理するロボットたちがが人間戻ってくると信じて長い時間ホテルを運営する物語だった。ピクサーの映画『WALL・E』も残されたお掃除ロボットが人間がいなくなったあともお掃除していてせつねーという映画だった。
SFではおなじみの設定だが、とりあえず環境問題が悪化して人間が宇宙にいったり絶滅したりすることが多い。そういった設定は、温暖化とかで毎年夏にひぃひぃしている私たちにとって、そういう未来がくるかもしれんなと切実に思える仕掛けとして機能する。そういう作品を見ると、なんなら環境問題に小さいとこから取り組みたくなる。ペットボトル、リサイクルしよとか。
でもさ、そもそもポケモンという生き物はいない。未来の話だからロボットとかいたりするよねーとはならない。私たちの世界にとって地続きなものではない。最初からポケモンは、いない。でも私たちにとって「いないけどいる」。そんなポケモンたちのポストアポカリプスなゲームで何を描いているか。それはやっぱり、人間とポケモンの関係だった。
『ぽこポケ』はポケモンシリーズとしては、相変わらず人間とポケモンの関係をはっきりさせないようにみえる。けれども、ゲームの中でいなくなってしまった人間が残した文章や写真を見つけることができ、それらにふれることで、確かにこの世界では人間とポケモンは深い関係にあったのだと感じさせるような部分がある。でも、人間がいなくなった場所で、ポケモンはそれとは関係なく別に生きていているし、なんなら楽しそうだったりする。人間がいなくてもポケモンは勝手にやっていける、そういう関係でもあると、なんとなく実感できるものがこのゲームにはある。メタモンとなってその中でポケモンたちの交流することはとても楽しいが、なので同時に寂しくもある。この感慨は、30年も続くキャラクターIPだから生み出せるものだ。まじで。そうでしょ。
ポケモンとなってポケモンと交流するという設定は、シリーズの成り立ちを考えれば正直ずるい。最初からポケモンというゲームがそういうものであったなら、おそらくはここまでのIPにならなかったと思える。けれども時代は変わり、IPは大きくなり、ユーザーの年齢層も広がってきて、違ったアプローチが可能になった。そうしたら、違ったことをしてくれた。
そして違ったことをしながら、このゲームで「うちのキャラクターもっと愛してな〜」と売ってくるなら、私は快く「愛すよ〜」と買っていきたい。ほんと、このゲームのポケモン、みんなかわいすぎ。
ついでに
Penという雑誌の2026年7月号は【特集:ポケモン最新案内】 [5] とかいって、ポケモンを扱っている。おもろいので買うといい。
https://amzn.asia/d/08v3U2Ce
これを読むと、ポケモンというIPを使った事業の幅広さにビビる。本当に色んなことをしている。『スーパーマリオギャラクシー・ムービー』の レビュー で、私は、任天堂が社会を描いているはずだが、どのようにそれを描いているのかわかんねーとかなんとか、書いたりした。けれども様々なかたちで展開されている事業を知れば知るほど、「社会」そのものやんけと思える。というか、あのレビューを書いた時、私は浅はかで考えが及ばなかったのだが、任天堂はゲーム機を開発し大量に流通させている企業だ。そもそもそういうアレじゃん。社会を作ってるじゃん。こわい。社会を描くとか以前に、社会を部分的にかたち作ってるのが任天堂なわけで、映画の内容より映画を作ったりすることじたいに強く意味がある。それをふまえて、任天堂が手がけるあれやこれやを見ていく必要があるなと、改めて思ったね。任天堂がこわいから。
つか、なんか、長すぎだろ。頑張りすぎだろ。もっと、気楽に何か書くだろ、ふつう。次はそうする。ぜったいに。
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